日々のこと

日々のこと

言葉を紡ぎだしてみるところ。

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恵比寿にて、

選手とスタッフと酒を片手に「プロ論」談話。


熱烈なファンと執念深い報道陣に囲まれた前球団では、

試合で負けるとファンが車で追いかけてくるもんだから、

高速まで使った壮絶なカーチェイスを繰り広げるらしい。

「よっし、振り切ったー」

と思うと、家の前で先回りして待たれることもしばしば。

「あの球団、選手も変態だけど、ファンはもっと変態だから」

と笑いながら、でもそのはちゃめちゃ感に鍛えられたことが

すごく幸せだったんだろうと思わせる楽しそうな表情だった。


例えばかつては、

「練習中は水を飲むな」

というめちゃくちゃなルールが跋扈していて、

先輩に階段から突き落とされても

「練習で怪我しました」と言うしかないような

なんだそりゃ!? というしごきの世界が

「体育会野球部のあるべき姿」だったわけで。


そこを生き抜き、

さらに

「骨折しても打てるんじゃー!おらー!」(脚色)

というアニキがいるようなところで

ファンに叱咤激励されながら生きてきた人にとっては


ポジションを獲得しなければ生き残れない世界で

まさにこれから席を奪おうとしている若手が

ちょっとした“違和感”を球団トレーナーにケアしてもらっている

ということ自体が信じられないのだそうだ。

球団トレーナーは必ず球団に報告する。

「あいつは少し違和感があるらしい」

という情報が知られることに、なぜ危機感を持たないんだろう、と首をひねる。

プロなら、お金を払って外でひっそりやればいい、

「痛い」と周りに聞こえるように言うのは、「できません」と言っているようなものだからだ。


ベンチ入りはたった28シート。


以前、死球を受けて右手が2倍くらいに膨れ上がった状態である選手を取材したとき、

あまりの痛々しい状態に「それ、本当に大丈夫なんですか!?」と聞いたら、

「大丈夫です!! やっと1軍にきて、やっとスタメンで使ってもらったのに、痛いとか言ってる場合じゃないんで。僕のポジションが奪われるのはあっという間なんで!」

と即答したのを思い出した。


前まで普通に

「野球だけやって、サラリーマンの給料の数(十)倍とか意味わかんねー」

とはっきりと思っていたが、

この熾烈な世界を少しずつ見るにつけ、

リスペクトの念は大きくなっていく。



愛情を持ち、尊敬をしながらも、フラットに客観的に。

私は少し見上げすぎなところがあるんだろうなぁと

取材する側のスタンスについても考えさせられた夜。


きちんと前進したい、この1年。

刺激を求めて貪りましょう。改めて。







紙に鉛筆を走らせている時間が好きな私にとって

手紙を書く

という行為は至福以外の何物でもない。


10代~20代前半までは、

中学時代の担任の先生に向けて

どうしてそこまで? というほどに自分の状況を事細かに綴っていた。

いま思えばほとんど

「聞いて聞いて聞いて!!!」

という押し付けだったのに、

毎回丁寧に返信をくれた先生はすばらしい人格者だと思う。



いまは九州に文通相手がいて、

その人とのやりとりは、私の心を満たしている。


幸せでいてほしい。

元気でいてほしい。

という思いから、


一緒に台所で料理を作ったり

夜更かししてお話してみたい。

という願望が日に日に増しているのが分かる。


あるいは、

私が書いたものを

楽しみにしてくれている、

という自己満足的なものかもしれないけれど。


日常の些細なことを、

全部書き連ねよう!

など、淡い恋愛中のような気持ちで。



・ ・


2012、

シーズン到来。


「中の人間が、こんなんじゃいけないと思うんだけど、

選手たちが一生懸命戦った姿に、涙が出そうになって……。

ベンチから飛び出して『よっしゃー!!!』って叫びたい気持ちで。

でも、俺がそんなことしてたらバカでしょ?」


数分話をしていると、もうぎゅーって彼の空気感に惹きこまれてしまう。

この人を、嫌う人っているのかな、と思う。

にっこりされて、きゅんとなる。


春か。

春だからなのか。




今年も現場で仕事ができて、

ほんとうにしあわせ。







たまにメールが来ては、

レポートか!?並みの文字量を送りつけてくる友人(推定40歳)がいます。

彼が熱く綴った内容を読んで、

ある対談のフレーズを思い出したので、


あなたのように

「自戒を込めて」

引用させていただきます。


==

『Sports Graphics Number ベストセレクションⅢ』(文藝春秋刊)

特別対談「スポーツを書くということ」後藤正治×沢木耕太郎 より


沢木:

僕が近頃危惧しているのは、ある世界のことを知っちゃっていると思いこむことの危険性なんですよ。

(中略)

ある一部分を知っているに過ぎないにもかかわらず、すべて理解できている、その世界を全部批評できると勘違いしてしまう人もいる。150㎞のボールを投げる人に対する畏れなんてどんどん稀薄になってしまう。

本来なら、ある試合を観たときに、彼がどうしてあんなプレイができたのか、どうしてあんなプレイをしてしまったのか、分かったつもりでいても、最後の最後のところでかすかな疑問が残るのが普通ですよね。

それを自分は全部分かっているんだと考えてしまうと、それから先に広がっているはずの新鮮な領域にぶち当たることがなくなってしまうんじゃないかと思う。


後藤:

われわれのやっていることは何なのかと考えると、要するに、自身が見たもの、耳にしたこと、感じたことを言葉で表現するということですね。しかも言葉を通して本質に迫りたいと。

うまく言葉に置き換えられるときとそうでないときがあるんですが、

これまで自分が感じたことを完璧に言葉に移し換えることができたと思えたことは一度もないですね。

(中略)

だから、まだ見切れていない、感じ切れていないと思うことからくる畏れはずっと持ってきましたね。


==


この人って、頭いいんだなぁ

と改めて(今更?)思ったメール。

考える機会をありがとうございました。



違和感を言語化できず、思考をぐるぐる巡らせている間に、

相手は私のことをさも「すべて分かっています」風に喋ってくるのです。


なぜなの? 


「言葉にしなければ分からない」のは真実だとしても、

うまく言葉にできないことだってあるのに。

ほんの少しだけ会わない間に、

気持ちが変わっていることだってあるのに。


人のことなんて分かりえない

というのは、逃げなのだろう。

でも、

分かっている

と言い切るのは、押しつけだと思う。


こころの距離感は難しい。



ときに惚れ惚れと、

憧れや尊敬の念でじっと、左側から見つめる横顔です。



出会えてよかったと心底思える人と、

今年4年目に突入する付き合いの幕開け。

また会えてよかったなぁとしみじみ。


何を話してきただろう、と思う。

相性がいい、という、ただそれだけの理由のない心地よさ。



「わたしたちって、いろんなところに行ってるんだねぇ」

「うん。当たり前でしょう」



比較的あたたかだったので、

夜の道をお散歩しました。

この人の言葉を

ずっと聞いていたいとさえ思っている。







もう一緒にいすぎて、

じっと黙っていても気兼ねない。

ときどき、ふっと、ある瞬間に笑い合うタイミングがぴったりと合ってしまうので、

この一瞬があれば、もうそれで大丈夫でしょう、と思えている。


素敵なビジネスパートナーに、恵まれました。




ほんとう、周りの人に支えられている。

思わず、マックポテト食べちゃいました。

この世界はすべてがイリュージョンである

と繰り返す小説『幻影の星』(白石一文著)を一気に読んだ。


数年前、何度か一緒に飲んでいた某企業の社長さんが、

「この世界は所詮、すべてが幻想だから」

と言い切っていたことを思い出す。


「この世界にいる誰もが、100年以内には全員が死にゆく」

というどうしようもない事実について、小説に導かれるまま思いを巡らせていると、

この世界が幻想だという主張にとても納得感が出てくる。


ちょうど渋谷のスクランブル交差点を歩いていて、

あわただしく歩く黒い人の姿を見ていると、


私たちは結局、

渋谷とか日本とか地球という空間を

数十年過ごすために、ちょっと間借りしているだけなんだ

という気になってくるものだ。


==


仕事が一区切り。

明日から、また違う仕事が始まる。

とても嬉しく、恵まれたこと。


人との距離感(親密感)は、

一緒に過ごした時間の長さに

ある程度、比例するもの。




新しい年が、

はじまりました。












これは私の問題だ。

時すでに遅し、なのだけど、

いよいよ認めなければいけない。


ドSの編集者と

平日の昼間から都内を散歩し

(ロケハンという名の散歩)

ぽかぽか天気にまったく似合わない話を

どばどばっと持ちかけて、心は少し軽くなる。

カバー案についてはまとまらなかったけれど、

いいタイミングの散歩(という名のロケハン)でした。

ありがとうございました(ぺこり)。


悲しいという気持ちの正体が、

何に対して向いているのかが分からなくて

ずっとずっとすごく混乱していたのだけれど、


ようやく分かってきたような気がしました。


複雑な感情に

言葉はいつも全然追いつかない。

言葉を使った仕事をしているくせに。

でも、だからこそ、

納得のいく言葉を探し続けようと。




This is the end of the story.


装丁含め、

かわいすぎる本『思いだしたら、思い出になった。』(糸井重里)

『小さいことばを歌う場所』につづいて、

製作費なんてかけてなんぼ! 的こだわりが素敵すぎる。

本棚に入っているのがしあわせ。




よいことわるいことに関係なく、

終わりということを考えるのは、

必ず、なにかのはじまりです。




なのだそうです。

糸井さん曰く。



広尾のあるカフェ(飲食店)で、

私の前に並んでいた欧米人が、

注文をしていた。

彼女は、

「chickenにします」

とゆっくりと、日本語でオーダーを伝えた。


広尾にいると、東京もグローバル化したんだなぁと

しみじみ思うほど(お前誰だって感じなんですが)

とにかく外国人が多いので、

日本語をぺらぺらしゃべる方もたくさんいる。

でも、彼女は、

「chickenにします」

のしゃべり方からして明らかに、日本語はあまりしゃべれる方ではなさそうだった。


しかし

店員さんは、何だかとても忙しそうに、

「こちらですね。かしこまりました。お客様、店内でご利用になりますか?」

と彼女に聞いた。


肝心の「店内でご利用に」という部分が早口なので、彼女は「はて?」というリアクションをしたのだが、

店員さんは懲りずに

「お客様、店内でご利用になられますか?」

と相変わらず早口で聞く。


そして、彼女がもう一度「?」と首をかしげてから、

「eat here?」

とようやく彼は言った。


そして最後に

「お客様、ポイントカードのご利用はいかがですか?」

と同じく早口で彼は言ったのだが、

彼女はその日本語をスルーしてchickenスープを自分の席に運んでいった。



その時間、別に混雑しているわけでもないのだから、

目の前のお客さんがどういう方なのかにほんの少しでも注意を向ければ、

少しゆっくり話すとか、手振りを使って話すとか、

何かしようがあるだろうに・・・


なーんだかなぁ


と思ってしまった。



昔パリに一人でいったとき、

かわいいパン屋さんを見つけてクロワッサンを買いたかったんだけど、

私の「クロワッサン」の発音が、パリ人には通じなかったらしく、

「フランス語喋れない人は無視!」

とばかりにオーダーさえとってくれないことがあって、


そのときの疎外感を

じんわり思い出してしまった。




日本のサービス業は世界最高峰だけど、


マニュアル化は味気ない。






夜中まで、

あらゆる世界の「事象」について頭を巡らせていたら、


「アメリカ空軍が日本を攻撃してくる」

という大変リアルな夢を見た。

毎日、寝る直前まで考えていることが、ほぼ100%夢に出てくるため

(しかも、何のひねりもない比喩的イメージとして)

朝起きると、自分の脳内を明確に突きつけられたような気がして

気が滅入るのである。



さて。

感動の神宮の1st stageを締めくくり、

まだまだシーズンは終わらない。



たまたま隣に座ったかわいいおじちゃんと

「今シーズンのスワローズ」について話したり、

近くのサラリーマンが選手への愛情あふれる激を飛ばしているのを聞きながら、

一緒になってハイタッチしたり叫んだりして、

完全にスポーツ観戦を満喫・・・・・・。


神宮球場が、こんなにファンに溢れている光景を

初めて見ました。

選手コールで記者室の窓がびしびしなっているのも、

初めて見ました。

(でも、まあ、半分はちゃんとジャイアンツファン)


ひとつのチームを心から応援したことって

いままでの人生でなかったことなので


なんだかとても幸せです。



そういえば先週。

文芸春秋さんより『どちらとも言えません』が出まして、

こちら、Numberに連載されていた奥田氏によるスポーツコラムなのですが、


わたし、とりあえずNumber買ったらこのコラムから読むくらい好きなコーナーだったので

とても、嬉しいです。

(著名なスポーツライターさんたちに申し訳ないような気もしますが)



文春さんありがとう。



その着目点に

大変感心します、奥田さん。